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アンビエントと身寄り

  • 執筆者の写真: 威 高松
    威 高松
  • 2024年10月1日
  • 読了時間: 5分

「ステートメント」

 

 大阪の河南町に下宿していた私は、二上山をこえて山の向こう側にあるこの場所に通っていた。山を境界にあっちとこっちを行き来する。それは経験として目の前をかすめる整備された自然らしい景色が、気分を洗い流してくれていたのだとおもう。

 

 前回の個展は3年前になる。mae no nagayaが土間打ちもされていない工事期間中で、eiも、yoco galleryもなく、私もまだ大阪芸大の大学院1回生だった。決まった作品のスタイルもなく、鉄製の枯葉、トルソ、椅子、花器、立体作品を持ち寄り、無理を言って個展をさせて頂いたことを覚えている。

 

 その後、作品は手を中心に身体で鉄の板をヒラヒラと曲げる方法で制作するようになっていった。火を使わずに鉄の板を曲げて制作をしている私には、おもっている形が素材の“硬さ”によってズレて出来上がることが付いてまわる。火を使わないことで鉄に手で触れられること、おもった形からズレることは、制作の中で重要な要素となってきた。

 

 偶然の連続の中にズレは現れ、まるで郵便の誤配のように根拠もなく思ってもいないところにかたちを持っていく。そのズレは、技術や技法、慣れ、手癖がコントロールして整えていく。しかしそれはなんでもないことすらも、そのちからで簡単に”らしい”ものに整えていく。

 工業的な技術をもって精製された鉄は、様々な姿に変身して街中で見かけることができる。どこであっても触れたところに錆びがつく。街中に善意から設置されているとすれば、他者に応えてそこで錆びついていくようにも見える。それはまるで触れたことを覚えているかのような痕跡を、私は仕上げをする前に磨き上げて消していく。

そういった制作の中で訪れるかのようなズレや、触れた痕跡を私は修正しながらも引き受け、また受け流して作品が出来上がる。ズレ、錆は訪れるものと言えるのかもしれない。それら訪れるものは愛着を呼び寄せはしないだろうか。

 

 いま、同時代の表現は善意の中だけで鑑賞されるものではなく、“いつかどこか”で悪意らしいものにも鑑賞され続けていくことが今までよりも簡単になっている気がする。回想されることで、なにか別のちからを受けても潰れることのない、正解も不正解も決めないようなしなやかな態度、例えば愛着のようなものが生き生きとした現在をつくってくれはしないだろうか。

 

 「ふかれて、うく」「そこで、ふく」「等身大になる」「肌理のかたち」と個展のタイトルを付けてきた。振り返ってみると、どんどんと手元に目を落としてきたような気がする。

 表現の身寄りにしてきた、山と風、自然らしい風景、気分を洗い流してくれたあの道を思い返しながら「アンビエントと身寄り」を今回のタイトルにした。


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「アンビエントと身寄り」

 

 小さい頃から中学生ぐらいまで、父が家でよく管楽器のホルンを吹いていた。何度かオーケストラやアンサンブルのコンサートを聴きに行ったことがある。ただ、その時の父の顔やどんな音楽だったのかも覚えていなくて、ただ心地よく眠ったことだけ覚えている。

 家では父の練習する音を聞きながら眠ることもよくあった。そのときだけ、音楽が心地よく感じていた。

 

 日常的に流れている音は、楽譜を覚えるために同じところばかり繰り返す。ふとたまにメロディを持って耳に届く。生活の中で薄らと響いているアンビエント(環境的)な音のひとつに過ぎなかった。


 鉄をそのまま手で曲げて制作しているとき、なにが残って何が消えたのだろうか。

 硬度のどうしようもなさに衝突する中で、何もできないまま、アンビエントなまま、かたちができあがってしまう。鉄とのあわく弱い繋がりを持ち続けることを考えることはむなしく、やるせない。

 鉄はあらゆるアンビエントを引き受けて、有機的な変化を繰り返す。それは車両から眺める景色の様に、目の前をかすめて流れていく。

 父が見つめていた音楽に見向きも気にかけることもできなかったように、留めて置けないアンビエントに身を寄せてやるしか私にはしてやれることがない。

 

どうしようもなさの中で、何ができるのだろうか。

鉄に向かっているとそういう気持ちになる。

なにか出来たのだろうか。


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「愛着が漂う」

 

「書くことで自分をまずしくする、そう感じることがある。(中略)選びとらなかった部分から新しい力を引き出すことが出来なくなる。」※

 

 生活の中でも、言葉にならないような、まずしさを感じる。愛憎のような手触りに先立って、感覚的に迫ってくる。それは、自省的で、だらしなく情けのない自身の言葉で感覚される。まずしさは何度でも、目の前に立ち、あらわれる。

 どうしようもないこのまずしさは、慣れること、懐くことで、見えにくくなったりもする。環境や関係性が強引に身寄りになって、なにかをいとおしくおもう感覚にも似ている気がする。言い換えるとするならば、愛着と呼ぶものにずっと近い気がする。

 

 まずしさに身を寄せること、身寄りになること。いま、ここで、それをいとおしく思うこと。どうしようもないまずしさを、いとおしさが強引に愛着に変えていく。それはいま、いる場所から逃れていく撤退戦のようなものかもしれない。

 撤退的な雰囲気の中、豊かさを探すひとつの方法。いや、豊かだと信じてしまう方法なのかもしれない。

どうしようもないまま、それを眺める。せめて、身を寄せてやるくらいしか、できないでいる。

 

 てつをもむ。ゆびが痛む。手が止まる。

 情けないなとおもいつつも、少しまがったてつを目の前に置いてみる。

 わるくない気持ちになる。てもとにたぐり寄せて、くるくると回してながめたり、なでたりしてみる。だんだんと良くなってくる。

 そのままでいいような、愛着が手元に漂っている。

 

※鶴見俊輔著、期待と回想 語りおろし伝、朝日新聞社、2008、p,590



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