ハンドメイド・パルタージュ
- 威 高松
- 11月1日
- 読了時間: 3分
「ハンドメイド・パルタージュ」
「それにはまず隠れたる海上の道というものの、次々と発見せられる日を期待しなければならない。それが待遠に堪えぬとすれば、やはりこういう多少のゆかりある雑談を試みて、ちょっとでも今日の希望を濃やかならしめるのが、よいかと思う。―中略―大きな島の一端に届いた外来事物は、たちまちにして全土の隅々にも及ぶもののごとく、当然の連帯責任を押しつける人が稀にはあった。汽車や電信電話の行き渡った今日でも、そういう効果は簡単に期せられない。まして山には峠路、川には渡し場が全く無かったような遠い昔に、そういう交通の期せられたはず がない。四面を海で囲まれた国の人としては、今はまたあまりにも海の路を無視し過ぎる。」柳田國男 海上の道 岩波書店 1978年 23p , 56 p
彫刻や工芸など立体表現は根源的には、制作技術や所属制度によって呼び分けられてきた。彫刻は“象徴”として、工芸は“手段”として立ち上げていくような“慣性”とでもいうような力が存在する。この慣性の力は発信手段の多様化とともにより拡張し、それぞれの分野に制度的な領土や座標をもつ。そこからこぼれ落ちる営為もまた存在する。それは共有地を探し続ける「漂流」のような動きと重なる。
私の制作の中で手と鉄の硬さがかたちを分け合い、目的のかたちは制作の水面に消えていく。
手に何かを持つことで、手の機能は拡張する。例えばバーナーを持てば鉄を焼くことができ、金槌なら叩くことが出来る。拡張される手は道具から機械、 IT、そして AI へと加速しながら続いている。手が発展することで道具は“目的―理想とされるかたち”に最短距離で組み直されていく。これは、かつて手にあった迂回や座礁を、静かに置き去りにしていく気分がある。
最短距離で完成させる仕方は資本的に好まれ、旧来的なハンドメイドはそうした遠回りや一時停止を抱えながら、枠組みにとらわれない営為といえないだろうか。
最適な方法を迂回した不確かで非効率な手段を取ることで目的に向かうかたちは座礁され、仮設的に取り繕いながら打ち上がる。
シンギュラリティが未来に想定されつつあるなか、人が誤り、ズレることの価値が見つめ直されつつある。ジャック・ランシエールの「分有(partage)」は可視/不可視、有効/無効のような境界を震わせ、感性的な眼差しを組み替え、再編
成するちからを説明した。それはいま、ここでは何が見えていて、何が見えていないのかを解体し、組み直す。
作家の営為が、制度や共有地に座礁を繰り返すことだとすれば、たとえそれが消耗的で、撤退的な身振りに見えたとしても、いまここにある正確さを迂回する新しい前進として見つめることができないだろうか。
“象徴”や“手段”を分け合う慣性が新しい共有地に向かって流れている。制度や技術の最短距離からこぼれ落ちる営為として、鉄を手で曲げることは素材の硬さと身体の力が折り合う地点で、かたちが座礁する。それはシンギュラリティがかき消していくだろう道程に流されながら、手で作ることが海上の道を目に見えるかたちで座礁させていく。
海の路のように消えていく道程に流されながらまた何度でも漂流に漕ぎ出し、手の慣性を組み替えながら、"希望を濃やかならしめる"行為として新しい場所に漂着することをいまは肯定的に捉えたいと思う。
2025/08/10 高松威










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